「学会30年を思う」 内田 勝

(医用画像情報学会雑誌Vol.12 No.1 January 1995より抜粋)

   
学会30年を思う

会長 内田 勝

 学会創立30周年記念が本年10月宮崎の地で行われた。その時の筆者の演題が”学会30年を思う”である。その概要は別刷り”学会30年のあゆみ”にまとめてあるが、ここにはこれを核として30年の歴史を追ってみたい。会員諸氏には”学会30年のあゆみ”の中の演題目録を参考にしながら読んで戴きたい。文中、氏名は敬称略、順不同。
 筆者の半世紀に亙る膨大な日誌の中からRII・MIIの記事を1回、1回と110回繰ってみた。殆ど出席しているが、止む無く欠席した研究会も多い。RII研究会創立当時の詳細は金森総務理事による”RII研究会設立当時の回想”本会誌 7 89 (1990)に明らかであるので省略する。この様に難産といえば難産であったが、立入教授始め医学界の主導者方の理解と援助のお陰で誕生したと今でも感射を忘れない。第1回から第9回までをまとめた”放射線像の研究”第1巻 レスポンス関数 には序として立入・足立・宮川・高橋各教授の賛意と檄励を戴いている。第10回から第19回までを”放射線像の研究”第2巻 解析と評価 にも同様に序として高橋・足立・宮川各教授から更なる努力と激励をいただいている。これを見ても本研究会が医学界からいかに積極的な研究の推進と成果を期待されていたか分かるであろう。第1巻の”まえがき”にはRII創立当初の国内外の状況とShannonによる本来の情報理論の導入の必要性が述べられている。編集後記には医学と工学の境界領域を開拓する困難性を呟いている。第2巻の編集後記にはRIIの賛助会員へのフィードバックと考えられるこの研究成果がサッパリ取り上げられていない事に対する残念さが述べられている。オリジナルな研究を求めるあまり、落ち穂拾いがされてないことにたいする不満である。第23回までを関西で事務局を担当した。この間に前述の”放射線像の研究”第1巻・第2巻の刊行の外に、放射線像の研究白書をRII研究会として日医放学会誌 第29巻 第10号 昭45 に、”STUDIES ON RADIOLOGIC IMAGES”として応用物理 第39巻 第6号 P610 (1970) に発表した。この時期の毎回の研究会記事の編集後記には、その時代、時代を反映した問題意識があらわれているので2~3紹介しておこう。

 研究会記事 編集後記
第14回 昭和42年9月9日
 研究会終了後、当日会員の地方の青年からつぎのような質問を受けた。”この研究会は医学と関係があるのですか”私は十分な説明をしたつもりであったが、帰途新幹線車中で、今別れた青年の納得の行かない怪訝な顔付きを思い浮かべていいようのない不安に苦しめられた。応用物理の巻頭言に”応用物理とは何か”に付いて再三再四論議されているくらいであるから、本会の将来の方向について、いろいろな疑問が起こるのも無理はあるまい。しかし、1人の朴訥な青年を納得させ得なかったということは、はたして自分自身が明らかなのであろうかと内心忸怩たるものがあった。
 今回は研究会記事の外に、”国語問題についての小論”を掲載した。私事で恐れ入るが、医学関係の投稿で無修正掲載に慣れていた筆者は、初めて応物に投稿してみてビックリした。投稿後しばらくしてハネ返ってきた原稿は見るも無残に真っ赤という印象を受けた。新かなづかいによる訂正である。外国文ならいざ知らず日本人が日本語を訂正されるほど恥ずかしいことはない。それこそ人に見せられない。1人ソッと開いては赤インクより赤くなったのではないかと思われる程カッカとくる。JJAPの英文投稿の方がはるかにましときては戦前派には正に脅威である。この小論を一読して感じた事は確かに日本語の混乱である。そのような意味で、大方の読者には必要ないかも知れないが、迷える一匹の子羊の為に敢えて貴重な頁数を割かせていただいた。

第16回 昭和43年2月24日
 今回も熱心な研究発表および討議が行われ、ことに会長の医学からみた質疑応答にはいつものことながら教えられるところ多く有り難かった。われわれがもっとも飢えているのは医学において何が欲せられているのか、医学者はわれわれ理工学者に何を求めているのかという問題点である。放射線像の研究第1巻をご覧戴ければ分かるように、それらの研究はほとんど理工学者の目からみた問題点であるように思える。医学者は理工学者に問題点を提示し、理工学者がそれらについて研究した結果を医学者は臨床面に適用する。この分業が成り立ってはじめて本研究会も創立の意味があろうというものである。現状のように、理工学者が各々の専門分野で勝手に問題点を提起し、その研究結果の発表のし放しではその専門分野で優れた意味をもっていても医学への貢献に関しては、風が吹けば桶屋がもうかる式の寄与はあっても、本質的直接的の寄与をするものではないと思われる。ただし以上は編集子の一私見である。さてそれならば具体的にどうすればよいかと開き直られると編集子も両手を上げざるを得ない。

第17回 昭和43年7月20日
 最近、パスカルのパンセの極く一部分を精読する機会に恵まれた。神の存在について、カケの考え方で無神論者を説得する件である。フエルマ及びホイヘンスと共に確率論の先駆者の一人である彼が確率という言葉を用いないで説明を試みている。私なりの解釈によれば次のようである。“神の存在にカケようではないか。得られるものは無限の生命であり、また失われたとしてもささいなものである。”この結論に到達するまでに確率の考え方を導入していろんな場合について証明している。後世の多くの学者がこの件をつつきまわしている。問題が問題だけに無理からぬとも思うが、宗教家であり、哲学者であり、物理学者、数学者でもあった大天才パスカルである。その彼が少なくとも及びもつかない連中(失礼?)によって、たまさか程度を落とした説明で論理を展開したがために、クソミソにやっつけられているのは見るに忍びない。私でさえどうかと思う説明である。”たった100円の投資であたれば400万円である。カケに損してもしれている。カケないやつはバカだ”というのである。あたる確率から期待値を計算すれば買うバカはいなくなる。彼がこのことを知らなかった筈はないと思う。相手まで程度を落として分かりやすく説明しようとしたが為の誤謬であろう。パスカルも後世でこれほどさわがれるとは思わなかったにちがいない。まして研究論文の種になるなどとは。また、私ごとき門外漢にまで引っ張り出されてパスカルも迷惑なことであろう。地下で苦笑しているに違いない。
 今われわれは教科書を編集しようとしている。われわれはパスカルどころかヒラクラスである。従って1世紀どころか今後4分の1世紀もつかどうかあやしい限りである。しかしながらパスカルの教訓は執筆にあたり肝に銘じておくべきであろう。分かりやすく書くために、たとえば電気の説明に水を、また確率の説明にサイコロをよく用いる。一見分かりやすいよであるが、入門時にこのようなアナロジーで頭に入ると、その枠内でしか物事を考えられないで、あと伸びないし、またとんでもない誤りを犯すことがある。例え、入りにくくてもそのものズバリで解説するべきであろう。また、読者も文章にたとえアナロジーが出て来ても、すぐその中に入りこまないで一段高い所から見るようにして戴ければ、教科書もきっと正しくその目的を達するであろう。

第18回 昭和43年9月28日
 前略。 人々が何らかのeventを批判するとき、その人々の判断はその人々が今までに得て来た情報を基礎としてその上にくみたてられた思考から発想するものであろう。従って、その人の思考形式は過去から今までに得てきた主な情報源の性質に影響されるところが大きい。筆者の年代の者は戦時中の帝国主義教育を受け軍国主義マスコミによって勇んで死地に赴いた。敗戦における呆然自失、そして決心したことは、もう決して二度と騙されないぞということであった。世界情勢においても、国内情勢でも、異なった情報源からの異なった批判勢力の情報を公平に得て判断するべきであろう。もし一つしか得られないときは自分の判断を正しいと確信するべきではない。ソ連・チェコ問題にしても、学長の機動隊学内導入を批判した目でいま一度考えてみるのも面白いだろう。
 われわれは非常に幸福な分野に住んでいる。それは、何処の国に行ってもフーリエ解析は認められるし、数学的な正しさは洋の東西を問わず共通しているということである。一つの仮定されたruleにしたがった発想が認められる世界だからである。これを理性だといった人がいる。 後略。

第19回 昭和43年12月14日
 前略。 ふとパスカルの言葉を思い出す。”人は効き目のあるように戒めその人が間違っていることを示してやりたいと思うならば、その人がどんな方面から事柄を見ているかを観察する必要がある。なぜなら、普通その方面においては事柄は正しいものである。そうしてその正しいことを認めてやり、どの方面において事柄は誤るかをも示してやることが必要である。人はそれで満足する。なぜなら人は自分の誤っていなかったことを知り、また、ただすべての方面を見ることは怠っていたことを知る。ところで人というものは総てを見ないことを遺憾には思わないけれども誤っていたとはいわれたくないものである。多分その訳は、人間は本来総てを見るということはできないものであるからであり、また彼の見るがわにおいては、例えば与えられた感覚そのものは常に真であるように、本来誤る事はないからである。 後略。

第20回 昭和44年2月15日
 前略。 最近、心象的な話をきいた。それはある会社の課長の話である。多年胃病に悩まされX線テレビ装置を設備している大病院で診察を受け、胃カメラも併用して胃癌であると診断された。課長はその後他の大病院2ヶ所でX線テレビによる透視および写真でさらに精密な検査を受け、やはり胃癌であることが確認された。課長は最後にわらをもつかむ思いで、消化器診断では名医と評判の某医院を訪れた。その病院ではX線テレビどころか未だ約10年前のX線装置を設備しているとのことである。2時間半に亙る診察、30枚に及ぶ写真によって診断の結果、神経性の胃炎であることが判明した。課長は喜びのあまり、その写真をもって今まで診察を受けた医師に再診を乞うた。3ヶ所の医師は異口同音に”この診断は正しい。これだけの診断能力に敬服する。”と云ったという。
 この名医が最新のX線テレビ装置で同じ診断が下せたかどうか、意見の別れる所であるが、要は医師が全人格をもって診断するか否かにかかっていることである。決してテレビが悪いのではない。X線に患者と同様にさらされて、真っ暗な中で自分の命を削って診察している環境は全人格の投入を必然的にし、一方放射線に対して安全な明るい隔壁内での便利な作業は冗長度を増すに違いない。
 ここに金原教授の”Esprit cartesien”を見ることができるし、また湯川教授の”人間が独自の自然認識あるいは自己認識の能力を備えているという特質が軽視されると、機械の側だけがとめ度もなく精密化し、巨大化して人間の存在を矮小化してしまうのを防げないだろう。機械が人間よりある点で優位に立つということはあっても、人間には何処まで行っても”すべてを根底から疑う”という貴重な能力が残されているのを誇りとすべきである。”を今更のように認識した。 後略。
 第24回から事務局は関東に移り、竹中・長谷川両委員によって運営された。記憶によれば、関西における赤字を引き継いで、非常なご苦労をおかけした。大変申し訳なく思っている次第である。関西事務局時代のRIIの研究テーマの殆どは画像の鮮鋭度と粒状性の評価を中心に発展してきたが、その後はその反動といおうか、次ぎの新しいテーマを見つけるべく雑多なテーマの試行が続く。ROC・II・CT・MRI・CR・エントロピー・自動診断など。通巻29号から誌名を研究会記事から放射線像研究に変更した。関東事務局時代の主な編集後記を参考に跡をたどってみる。

放射線像研究編集後記
VOL.3.No2.(通巻35号)1973(昭48)・5
 前略。研究発表も6件あって盛会でした。題目を見ますと2~3年前迄多かったMTFは昨年からは殆ど無く、画像雑音に関するものがここ1~2年の間にふえ、また計算機を用いた何等かの処理に関するものが増えているのが目につきます。後略。
VOL.4.No3.(通巻40号)1974(昭49)・9
 前略。今回のプログラムにはMTF関係のものがなく、5年前に幹事を引き受けた当時はあらかたMTF関係の演題であったこととくらべ、一抹の淋しさ、今昔の感に打たれます。ある意味ではRII設立当時の使命は終わったことを示すわけです。一方画像処理関係の講演の多い程参会者が多く討論が活発に行われる近況で、特別講演も当分このような傾向でお願いするつもりでおります。放射線医学と工学の接点として、会の今後についてご意見をお寄せ下さい。
VOL.4.No.4.(通巻41号)1974(昭49)・12
 前略。RII研究会をシカゴで開催する件については、高橋会長の司会で全参会者で討論をいたし、時期、場所を設定して会員各位に参加、演題の希望の有無をアンケートすることといたしました。アンケートは1月実施し発送179(米国在住者除く)回収69、内訳、参加7、予定6、未定4(予定、未定は旅費、他の学会との時期関係などの理由)不参加52、演題予定8件でした。これをロマン教授に伝え、先方の判断にまつことといたしました。 後略。
VOL.5.No.1.(通巻42号)1975(昭50)・3
 前略。RII研究会も11年を終わり、雑誌を並べてみると演題の変化に今昔を感じます。第1回研究会の39年2月と云えばX線テレビは一部の大病院のみに使われ、RIや超音波は殆ど実用になっていなかったと思われます。研究会の往復は市内電車、駅ではSLが待っていました。工学ではICは未開発、レーザーも未実用、計算機は今日のミニコン程度のものが大型ともてはやされた時代でした。こうした背景の移り変わりに従い、総合学問である医用画像工学も中身が変わり、我々の関心もRIIの使命も移って行くものと思われます。 後略。
VOL.7.No.3.(通巻52号)1977(昭52)・9
 前略。午後の研究発表には今回はお申し込みが特に少なく、大部分の講演は演題締め切り後に幹事から無理に発表をお願いしたものです。発表者にはご迷惑かとも思いますが、そのような事情だけになまなましい話題が多く会は活発に運ばれました。もともと本会はインフォーマルな相談会として出発し、実験上の困った点などを気軽に相談し合う会でした。晋段演題に疎遠な方のご発表を期待しております。
VOL.10.No.4.(通巻65号)1980(昭55)・11
 前略。当会も誕生以来18年目となります。この間診断装置もX線から各種放射線、超音波、NMR等と間口を広げました。当会も会名を変えて時代に対応したら……との声もあります。後略。
VOL.11.No.3.(通巻68号)1981(昭56)・8
 前略。当会も創立18年を迎え、正会員340名で漸増の傾向にあり、この種の研究会としては異例の息の長い集団となっています。これも一重に創設の方々のご方針・会員の方々のご協力の賜物です。最近は他のグループなどから合併してはどうかなどの話も聞かれるようになりました。後略。
 第75回から再び事務局は関西に移った。
第76回から高橋会長の後を継いで内田が会長となった。研究テーマは続いてDR・X線スペクトル・フラッシュX線装置・コンピューター支援診新等、またファジィ推論なども顔を出し超音波画像、歯科領域にまでその間口を広めた。そろそろ内部的に分化統合の時期が来ているのかも知れない。第79回から学会に名称を変更した。続いて巻頭言・編集後記などで歴史を繙く。

放射線像研究
VOL.13.No.3.(通巻76号)1983(昭58)・11
(巻頭言)分化と統合
 本研究会は来年3月で創立満20年を迎えようとしている。早いものだとつくづく思う。しかしよくふた昔も続いたものである。途中で何度も演題切れの度に、もうこの研究会の使命は終わったのではないか、解消して新しく出発しなおすべきではないかと自問自答し提案もしたものである。最近に至っては、他の同種の研究団体から合同新発足の誘いかけもあったが、これも辞退して相変わらずのRIIはgoing my wayである。
 何がこの500名足らずの研究団体をこのように維持させているのか、考えることしきりの昨今である。会の維持については、歴代の役員諸氏の努力もさることながら、賛助会員の奉仕的援助によるところが大である。この場をかりて厚くお礼を申し上げると共に今後も変わらない賛助をお願いする次第である。
 他方、本質的な研究の維持については、会発足当初から幾多の変遷を経て現在に至っているものである。X線管焦点のフーリエ解析が会誕生の発端となったことはそれこそ二昔前のことであるが、この領域は増感紙・フィルムなどの光学からの延長として発展して来た分野と共に一度に開花したのである。このように華やかな時代は精々10年ほどであったろうか、その後は放射線関係の演題は激減し毎回の発表演題にこと欠く有様、その後の役員諸氏の努力は見るも気の毒であったと記憶している。従ってその後の演題も、本来の目的である放射線を手段とする像情報からはなれて、周辺の機器とか像が多くならざるを得ない状態となってきている。それも役員が毎回かけずりまわって寄せ集め、会の面目を保ってきた有様である。この様な現状をふまえると、それなら前にも再々考えたようにこの研究会は解散した方がいいのではないかという思案が出て来る。しかしながら、それはとんでもない考え違いであることに今更のように気が付くのである。
 そもそも.RII研究会は当初、放射線による像を情報理論によって解析することを目的として発足した。従って、画像だけでなく、線量像についての情報理論による解析もその主な領域として存在していたのである。ところが、科学は限りなく分化と統合をくりかえして発展するという例にもれず、測定関係はその影を潜め、画像の解析がだんだん主となってきた。また、その画像も現在ではNMRに代表されるように、放射線を手段とするという制限を解放しつつある。すなわち、像は画像を哲学として共有する各分野がその発表の場を求めている現状である。以上をまとめるとつぎの2点になると考えられる。
 その第1は、医療総合画像診断の言葉に見られるように、現在の画像は多様化してきているということである。放射線だけが孤塁を守るときではない。正に総合画像情報としてとらえる時代である。研究団体として医療画像を旗印にかかげるならば・その中に放射線分科会、断層分化会、超音波分科会、……等の分科会がそれぞれの専門領域として権威をもつべきであろう。すなわちその研究団体は、画像を専門として共通する、手段の異なる分科会から構成されることが望ましい。
 その第2は、医療画像情報に関する論文の審査をどこの学会が主としてとり上げ権威をもって行ってくれるかである。筆者を含むまわりの人々は自己の論文の権威のために学会誌を選ぶが、権威ある学会で主としてとりあげ審査してくれるところはない。精々"その他"の項で扱われるくらいである。したがってそのレフリーも専門の権威者であるとは限らない。それはレフリーからのレスポンスをみて"おぬしできるのう"とは考えられないからである。ここまで考えれば"それならRIIが一肌ぬいで男になろうじゃないか"というところであろう。そのためにはこのままでは無理である。やはり学会形式をとり権威あるレフリー制をしいて、小粒でもピリッとからい存在となる必要がある。
 まだ外にもいろいろ気付くことがあるが、この2点だけでもこの際RIIが脱皮して新しく生まれ変わることが、RII研究会をこれまで続けてきたことに対するわれわれの一つの責めであると痛感するものである。勿論、学会に対する欠点もある。会費が高くなる、いままでのフリートーキングのようなリラックスした雰囲気が失われる、会誌に気楽に掲載されなくなる等々。またこの逆が研究会の利点でもあるのだが。どちらをとるか、創立20年のこのときに真剣に考えていただきたいし、考えたいものである。
いま筆者の机の上に日本学術会議からとり寄せた学協会登録申請書が置いてある。資格は総てととのっている。署名捺印するかどうか、これは会員諸氏にきめていただくことである。

本学会誌
VOL.1.No.1.(通巻78号)1984(昭59)・9
(巻頭言)権威ある専門学会
 常任委員会・委員会・総会の議を経て今年度から放射線イメージ・インフォーメーション研究会(RII)は医用画像情報学会に衣替えした。"学会になっておめでとう"と何人かの人々から喜ばれた。そのお祝いの言葉には心から嬉しく感謝する一方、冷水をあびせられる思いもするのである。それは顧問立入先生がよくいっておられた"めでたいか、めでたくないかはそれが終わる時に分かるのだよ"という言葉である。"終わりよければすべてよし"という言葉に一脈相通ずるものがあると思うが、その通りである。"おめでとう"といわれたわれわれは多大の債務を背負わされたような気持である。
 研究の歴史も長く、学問の基礎もでき、将来の展望も開けているこの学術団体が万が一にも衰微するようなことがあっては大変である。本学術団体は当初から機能的な色彩の一切ない純学問的な団体として進んできた。学術団体としては当然そうあるべきであって、それが20年の歴史を示しているのである。
しかし、いままでいつも執行部を脅かして来た大きなネックは経済的な問題であった。経済力の豊かな職能的学術団体と異なり、学問の同好の士というつながりだけでは、その経済力は貧弱であってもやむを得ないのである。しかもこの貧困な経済的基盤の上に立って、この学会はRII研究会を引き継いで誕生した。前途多難であると覚悟せねばならない。
 この困難な中にあっても、年3~4回の会誌は珠玉のような論文で紙面を満たし、充実した学問的記事で余白を埋めたいと考えている。たとえいまは年発行回数が少なくても、頁数が少なくても、そのうちにはちきれんばかりの頁数と月刊でも足りないほどの時代が来ることを夢みている。いまは超ミニ学会であるが、将来は世界的にも認められた権威ある専門学会として発展したいと願っているわれわれなのである。 "自然は急変を嫌う"という。RII研究会の内容は徐々に徐々にと医用画像情報学会へ変身する筈である。常務理事会・理事会などで本学会の将来の在り方を真剣に検討しながら、本学会の目的に徐々に収束していきたいと考えている。
 学会員諸氏の絶大なご協力とご後援をお願いする次第である。

(編集後記)
 前略。表紙について。周知のとおり,最初の医用放射線画像はRontgen(1895)が夫人の手を制動放射X線で撮影したものである。制動放射を前期量子論で説明したKramers(1923)の歴史的な論文に従って、表紙の図案を作ってみた。表紙の円と曲線は、電子が原子核の近傍を通るときに減速される様子を図案化したものである。 後略。

本学会誌
VOL.2. No.1.(通巻79号) 1985(昭60)・1
(巻頭言)  学会発足にあたって     顧問 立入 弘

 昭和39年3月21日に、大阪大学医学部付属病院の小じんまりした会議室で31人の人々が集まって、ささやかな研究集会が催されました。工学、理学、医学、放射線技術などの、年齢や階層を問わない異なった領域からの人達でした。こうした会合のはじめにはいつもみられるように、研究の意気に燃えるもの、”イメージ・インフォーメーション”というその当時としては耳に新しかった言葉に戸惑う人、あるいは新進の研究者の中に入って学識の若返りを願う年配者らが、意欲と好奇心をもって基礎的な真理の探求を志しました。その日の報告は、”X線撮影系の光学的考察”・”レンズを含んだ像伝達系の一評価法”・”最大情報量撮影”・”γ線スペクトルの超分解”などでありました。画像情報ではあっても、その中心が臨床医学のX線写真におかれていたのがわかります。
 新しい医用画像情報学会雑誌の第1巻、第1号では”放射線領域における濃度-露光量変換曲線とミクロ黒度特性”・”画像の系列依存性による評価”・”定量性を保有したSPECT用の新しいデータ採集法”となっています。こうしてみると、今回”医用”画像情報学会と”改称”されたのは頷かれます。初めの精神が今もなお受け継がれているからであり、名前は研究会でも学会でも、本来の主旨から云うと一見ネクタイを締めた位のちがいです。しかしネクタイのあるなしは品格を整えるだけではなくて、心構えも一新されるようになりましょう。問題は会員の精進と研究の成果にあるので、第1号巻頭の内田会長の言葉にもその覚悟のほどが窺われて、うれしい限りであります。
  ”遠くして光あるものは飾りなり。近づきていよいよ明らかなるは学なり”という言葉があります。会員の皆さんのご健闘と内田会長とそのスタッフの強く正しい指導力とを期待し、徐々ではあっても確実な一歩一歩で、地味な本学会の存在価値を十二分に発揮されるように念願します。

本学会誌
VOL.2. No.2.(通巻80) 1985(昭60)・5
 顧問 高橋信次先生のご逝去を悼む
 弔詞-”大きな星”

 高橋先生が亡くなった。いまこのように追悼のことばを書いていると、在りし日の先生のことがつぎつぎと思い出されて来る。それも浜松医大副学長、愛知がんセンター総長として功成り名遂げられた時代でなく、一教授でRII研究会の会長をしておられた若き時代のことである。私は一度先生からコッピドク叱られたことがある。RIIの常任委員会を招集して置きながら、その本人が大遅刻をしたときのことである。重々私が悪いので一言の弁解の言葉もない。会長である先生は他の人々の気持をおさめるために、ひどく面責されたのである。なかなかできることではない。いまだにこの教訓は身にしみて肝に銘じている。
 その頃RII研究会にはよく出席された。先生は医学者であるから、われわれ理工学者の述語もその論理も難解であったに違いないと思うのに、演題の殆どに質問をされた。それも東北弁のタドタドしい特徴ある話振りは耳にこびりついて離れない。中には見当違いのこともあった。しかし岡目八目といっては誠に失礼であるが、すばらしい示唆に富んだ意見が泉のように湧き出てくるさまは、正に驚きに値した。やはり、先生の画像に対する確固とした哲学が然らしめるところであったのだろうといまになって思うのである。
 私どもにとって偉大な人々がつぎからつぎへと欠けて行く。今度も大きな星が落ちた。人間の持って生まれた宿命とは知りながらも悲しみに耐えない。後に続く者は先生の遺徳を忍び、遺産を受け継いで、1ミリでもいいピラミッドを高めて行きたいと心に期するものがある。
 先生、RII研究会はMII学会になりました。みんなできっと立派な学会にしてみせます。先生安んじて眠って下さい。さようなら。  合掌。

本学会誌
VOL.6. No.2.(通巻92) 1989(平1)・5
 (巻頭言)  創立25周年に思う

 総務理事から今年は創立25周年ですと聞かされ、ありふれた表現ですが、正に感無量といったところでした。同じことを立入先生に申し上げたら”よく続きましたね”と感慨無量のご様子でした。筆者も全く同じ心境でよく続いたものだと思います。今でも決して楽な運営だとは思われませんが、今まで何度も何度もピンチを切り抜け現在に至っているのは、正に会員諸氏のご理解とご援助の賜物であります。紙上を借りて厚く感謝申し上げます。
 この際に25年前の記録を見るのもと思い、放射線像の研究第1巻・第2巻を開いてみました。自画自賛になりますが、この頃皆-懐かしい人ばかり-本当によく勉強しました。よくこれだけ出来たと、やはり若さの故に可能だったのでしょう。25年の歴史はその当時の人々の上にそれぞれ異なった人生を歩ませました。いまでも厚い交遊の続いている人もあるし、なかなかお目にかかれない人もいます。しかし、殆どの方に共通していることは、それぞれの職場で元気に活躍され指導的な立場におられるということです。
 世は正に情報化社会爛熟の真っ只中です。何も彼も情報と名が付けば何かナウイと受けとられる時代です。当たらない代名詞のような天気予報ですら天気情報と衣替えして、当たらないのが不思議でないような気がするから不思議です。わが医用画像情報学会も名称は最尖端のおもむきがあります。しかし内容は必ずしも”医用画像に情報理論を導入する”ばかりではありません。これは”放射線イメージ・インフォーメーション研究会”からの脱皮であってみれば、当分は古い表皮がいくらか残っていてもそれは当然といえるでしょう。長い年月かけてこの名称にふさわしい内容に徐々に改変が進むことを期待するものです。わが学会の理想としてこの目標を高く掲げ、次の25年また次の25年と続けて行きたいものです。
 ”物質とエネルギー以外はすべて情報である”という考え方があります。狭い情報でなく物質とエネルギーを支配する情報として情報理論を考えるならば、医用画像の中に広汎なテーマが対象として見出されるでしょう。”学会の名称にふさわしい論文を”を目標にかかげて次の25年、少しでも進歩したいと存じます。この創立25周年に際し、会員諸氏と共に過去を振り返り、現在を見つめ、将来に期待したいと存じます。

(編集後記)
 光陰矢のごとく過ぎて、RII研究会が発足してから25周年を迎えることになりました。誠にご同慶の至りであります。発足当時は、1年か2年で目的とする研究(主として空間周波数解析)は終わるだろうと云われた先生も居られましたが、とんでもないことで、新しい不可解な問題がいくらでも出て来ています。MTF,ウィナースペクトルの測定ですら、まだ確立されたとは言えません。情報理論の適用や、画質の総合評価に至っては、まだまだこれからです。一方では、会の名称を変更したように、創立当時の目的から脱皮せねばなりません。 後略。
 最近の研究発表のテーマから考えて、筆者なりの希望を交えた将来の展望を述べてみたい。それにしても何時も思い起こされるのは、筆者が約20年前岐大に在籍していた時に医学部のドクターから聞いた言葉である。
 ”MTF・ウィーナースペクトルなどその他の物理条件がいかによくても、私の望む陰影が出てないフイルムは私にとっては意味がない。逆にいかにそれらの物理条件が悪くても、私の欲するものが出ているフイルムは最高である。”当時X線造影写真で5ミリの早期胃癌を発見した名医として喧伝された人物の言葉である。濃度が適当でコントラスト・鮮鋭度・粒状性などその他の評価条件がベストであるような画像を求めていた筆者にとって晴天の霹靂ともいえる言葉であった。当然の言葉であるだけにそれ以来、これは頭から離れず、事ある毎に反省の材料となっている。
 名人と云えば放射線技師についても、むかし名人芸といわれるX線技師が多くいた。当時徒弟制度であったため、これらの名人芸にはいろいろな弊害が伴った。そこでこれら名人芸をなくし、学べば誰でも一通りの技術ができるものとするために学校制度ができた。そして今では4年制大学にまで学問として発展したのである。放射線撮影に関して云えば学校教育を受ければ誰でも3点位の写真はとり得るだろうけれども、名医の望む5点の写真をとることができるだろうか、疑問である。理工学者が最も知りたいのは放射線被写体の物理定数は何かということである。ドクターが求めている物理定数は何か。この物理定数が定まらなければ、すなわち、あるドクターは判別がつけばいい、ある者は関心領域がリニアーに表れておればいい、形が分かればいい、その他吸収係数・物性・密度・厚さ・体積といろいろである。これがファジィである限り、これを求める技術者はドクターに対するにファジィで望まざるを得ない。50年前のドクターの好みに振り回されていた時代と異なり、現代ではドクターの根拠あるファジィな要求に対し、立派に対応できる技術がある。名医の一つの特性とも考えられる診断のファジィ性を生かすためにも、技術者は従来のデカルト的な画一性・客観性を排し、パスカル的な個別性・主観性を重視してドクターのファジィ性に対応した技術をもって応えるべきである。
 ここに最近一連のコンピューター支援診断の台頭がある。機器の開発に伴って研究テーマは変遷してきている。いままで研究は基礎の問題が主で医学診断に必要な画質を求めるためのもので診断を云々するものではない。コンピューターを情報の手段と考えるならば、、コンピューター支援診断は本学会のメインテーマとも考えられる。しかし、診断支援・自動検出にとどまっている間は安心だが、自動診断へ進むとなると問題である。それは人間の神秘性をコンピューターで冒涜しようとすることだからである。ここに厳にハッキリと線を引いて考える必要がある。コンピューター支援診断には医師の参加が必須である。この点からもRIIの当初からの念願であるドクターの主導が積極的に期待できる。これで医師・技師・理工学者の3者協力のバランスのとれた研究体制がこのテーマに対してとり得ると考えられるからである。聴診器医師の時代には名医がいたが、コンピューター医師の現代に名医はいるのだろうかの問いに対して筆者は”今後、コンピューター支援診断の上に立って名医が誕生する時代が来るのではないだろうか”と答えたい。
 他方、RII当初から続いている画像評価の手法の開発は、新しい医療用装置・関連用品の開発される度に有力な手法として活躍している。更に今後も益々開拓が進められねばならぬ分野である。本学会は今までの研究の歴史を踏まえ、医学に貢献するという本来の目的をしっかり見定めて、将来へ向け進みたいと念願するものである。将来展望は筆者なりのもので決して本学会の将来を拘束するものではない。しかし、立入顧問の言葉にも窺われるように、この30年という節目に本学会の原点に帰って将来を真剣に考えて戴きたいと思うや切なるものがある。

 

投稿者 lee : 2005年06月18日 09:47