本研究会発足の端緒となったのは内田 勝先生(阪大医学部附属X線技術学校)の論文
最大情報量撮影について(1)撮影像評価の定量化
日本放射線技術学会誌 15巻1号77-80頁
(昭和34年4月)
である。筆者は、修士課程修了後、島津製作所で、X線の研究をはじめて満2年経過し、ようやく研究テーマがみつかって、一連の研究をはじめようとしていた時であった。その問題の一つとして画質の評価があった。この論文を見て、情報量とは画質の総合評価尺度になるらしいと感じた。
それから約3年後に、筆者が、全然別の観点から
X線写真の情報量の表示法(第1報)
日本医学放射線学会誌 22巻9号990-996頁
(昭和37年12月)
を発表し、38年1月19日の日医放関西部会(レントゲンアーベント)で発表した。内田先生は、2日後の1月21日に筆者を訪ねて来られて、意気投合し、互に励まし合って、今後の研究の交流を約束した。若い筆者から見れば雲の上に居られた偉い先生が、むこうからわざわざ訪ねて来られたのであるから、筆者の喜びがどのように大きかったかご想像頂きたい。
この二つの論文は日本医学放射線学会物理部会で注目されて、昭和38年4月2日の第6回研究発表会で、内田先生と筆者が発表する筈であったが、時間切れのため、次回に再度参加することになった。第7回の研究発表会(9月13日、米子市皆生温泉、図7下)では2人とも鋭い質問攻めに会い、散々な目にあった。参加者は、通信で使っているShannonの情報理論の解説を期待していたらしいが、両論文とも情報理論とは関係なく、X線写真屋だけしか考えつかないような独自の方法であったことが不満であったらしい。しかし、この質問攻めが契機となり、木村幾男氏(京都レントゲン技術専修学校、京大医放兼務)の助言もあり、研究会の設立を計画することになった。
一方、応用物理学会光学懇話会では、昭和31年にレンズ性能委員会が設立されて、フーリエ解析の手法を用いたレスポンス関数の研究が始まっていた。内田先生は、この成果にも着目されて、昭和38年7月13日に、大阪工業試験所村田和美先生(昭和40年から北海道大学教授)の講演会を阪大病院で開催された(図1)。このときの題目は、「光学における情報理論とレスポンス関数」であったが、Shannonの情報理論とは無関係で、フーリエ解析の話であった。当時は、フーリエ解析を情報理論と考えていた。
フーリエ解析の放射線像への適用について、米国で、昭和37年(1962)に、Morgan(A.J.R. 88 175)とRossmann(J.O.S.A
52 774)の論文が刊行され、国内では、昭和37、38年頃から、内田先生をはじめ竹中栄一氏(東大医放)、津田元久氏(島津)、土井邦雄氏(大日本塗料)、ガンマ線スペクトルについて井上多門氏(東芝)等の業績が出はじめていた。村田先生のご講演がきっかけとなって、昭和38年10月4日に、筆者が、24回応用物理学会講演会(福井大学)の光学分科(座長、村田先生)で発表し、村田先生のご紹介で、佐柳和男氏(キヤノン)、畑中 勇氏(富士フイルム)に、研究会設立の計画を伝え、参加を依頼した。
昭和38年11月9日に筆者が阪大技師学校で内田先生と会い、情報量撮影懇談会(仮称)準備会メンバーを決定した、光学からは、フーリエ解析の指導者として、村田、佐柳、畑中の各氏、放射線からは、内田、竹中、井上、土井、木村、津田の各氏と筆者であった(図2)。また、会長候補として、立入 弘教授(阪大医放)とS教授(阪大工応物)のお名前が上ったが、最終的に立入先生にお願いすることになった。11月12日に内田先生と阪大病院に立入先生を訪ね、会長就任をお願いして引受けて頂いた。これで、本研究会が医学の分野に参加することが決定した。25年の長きにわたって本会が存続したのは、医学を選んだからである。因みに、工学では、非破壊検査協会の放射線の分野でも、昭和41年に、情報理論とフーリエ解析の適用を研究するために、108委員会ができたが、8回だけ会合を行って、昭和43年11月を最後に立消えとなった。
昭和38年12月21日に阪大病院で準備会を開いた後、羽衣(南海沿線)の「新東洋」で宿泊した(図3)。このときに会の名称を放射線イメージインフォーメーション(RII)研究会と決定し、情報理論の名のもとに、情報理論とフーリエ解析の研究を医学に応用する目的の研究会が発足した。ここで、イメージインフォーメーションとは画像情報である。その後、映像情報、像情報、画像情報等の名称の雑誌や、大学の研究施設、講座名が続々と現われてきたが、この名称を、本研究会は、25年前に用いたことは、先見の明があったと自画自賛できるのではないであろうか。昨年(平成元年)6月2日に「新東洋」で創立25周年記念式典を開催したことは、会誌6巻3号に記載したとおりである。この準備会で、立入先生から、医学診断の専門の先生を招くために、メーカーで旅費を負担するよう要請があった。
第1回の研究会を、筆者の世話で、昭和39年2月29日に、京都の島津製作所で開催することになって、N取締役の了解を得て、案内状を発送した。しかし、突然、N取締役に木村氏、津田氏、筆者が呼び出されて、会社での開催の中止を命ぜられ、費用の援助もしないと言われた。費用は他社からも出る筈であったから、急遽、会場を、京都大学の施設の京園(吉田山の中腹で景色がよい)に変更して案内状を作成した(図4)。しかし、会社の援助なくして、研究会を強行すると、今後、3人とも出席できなくなるだろうとの勧告もあったので、この案内状を発送せず、会を延期して、第1回研究会のお世話を内田先生(阪大)にお願いすることにした(昭和39年2月3日)。図4は幻の第1回研究会の案内状である。このあと、2月11日に内田先生が島津へ来られて、会の設立の趣旨を説明され、我々3人の派遣と費用の援助を依頼された。その結果、この研究会に対して、島津も費用を出すことになって、我々も、毎回、参加できるようになった。また、他社のご賛助も頂いて、現在の賛助会員の制度に発展した。結局、内田先生が事務局を担当されることになって、筆者は表面から退いた。筆者は若かったので、焦ったのが失敗のもとであった。大学で言えば、大学院学生が指導教授に充分に相談せずに、研究会設立を計画し、教授に旅費を出して欲しいと頼んだようなものであった。実際に、取締役N博士は、筆者の論文の実質的な指導教授であった。学究肌の方で、70歳を過ぎても研究を続けておられる。
第1回の研究会は、昭和39年3月21日に阪大病院で開催された。この感激は一生忘れることができない。演題は第4回と同じである。医学診断の専門家として、立入先生のほかに、永井春三(国立大阪病院)、吉村克俊(関東逓信病院)、野辺地篤郎(聖路加病院)の3先生が参加され、貴重なご討論を頂いた。そのときの出席者の席を記録したものを図5に、スナップを図6に示す。筆者の座った窓側の席の先生方の写真がないのは、筆者のカメラにフラッシュがなかったためである。図7に昭和39年前後のスナップを追加した。
これで、会の設立について、筆者の役目は終った。その後、6年間内田先生が事務局を担当され、立入先生は昭和41年7月に会長を退任された。その後、高橋信次先生(名大)が会長を継がれてから、佐々木常雄先生にもご苦労をおかけすることになった。昭和45年からは、事務局が東京に移って、竹中(東大)、長谷川(電通大)両先生の苦難の時代を迎える。
最後に、25年も本会が存続できたのは、歴代の会長先生と上記事務局の先生方のご苦労、および、地道な研究をこつこつと、息長く続けて来られた会員の皆様、また、本会の会計を支えて下さった賛助会員の皆様のおかげである。ここに深甚の謝意を表し、回想を終ることにする。
|